▼金銅四天王五鈷鈴(唐時代)
五鈷鈴(ごこれい)
・金銅四天王五鈷鈴(国重文)
縁起によると、大師は天応1年(781)から延暦5年(786)まで蓮華山八国寺で勉学に励まれ、その後、唐から帰国した大同2年(807)に再度獅子窟に籠り衆生を救わんが為千座の護摩を修したとされる。
満願の日、蔵王権現のお告げをきき、五柄の宝剣と金銅の五鈷鈴を獅子窟に納め、山号を剣五山、寺名を弥谷寺に改めたと伝わる。
寺宝の五鈷鈴は、大師が唐にて恵果和尚より授かった密教法具(密教の儀式で使用する道具)で、四天王鈴には周りに仏天を守護する四天王が施される。文化財保護法制定後、香川県で初めて国指定重要文化財に指定された。また、金剛峯寺の独鈷四天王鈴、弥谷寺の金銅四天王五鈷鈴が弘法大師請来で唐代の仏像鈴として現存する。
・密教法具とは
密教はインドにて展開した仏教の一派で、教理とともに修法と呼ぶ実践行を重要視する。この実践行に用いる法具は他の宗派では見られない特殊なもので総称して密教法具と呼ばれる。この中には、古代インドの武器を起源とする金剛杵や金剛鈴がある。実践行の過程では、行者に忍び寄る煩悩を打ち砕き、清浄心を得るためのシンボルとして用いられる場合も少なくなく、金剛鈴に備えられたヴァジュラもそうした魔除けの象徴的なものであり、修法の際に打ち鳴らすベルの音は、浄化を目的とするだけでなく、諸尊を歓喜させ道場に来迎を願う合図ともなる。
・仏像鈴とは
金剛鈴の鈴身に尊像を表現したものを「仏像鈴」、種子(梵字)を表したものを「種子鈴」、三昧耶形(器物)を表したものを「三昧耶鈴」と呼ぶ。さらに仏像鈴には大別して「四天王鈴」「明王鈴」「梵釈四天王鈴」の三種がある。種子鈴や三昧耶鈴に和製のものが多いのに対し、仏像鈴のほとんどが唐時代から宗時代、あるいは新羅時代から高麗時代に制作されたものである。
・四天王鈴と梵釈四天王鈴
「四天王鈴」と梵天・帝釈天を加えた「梵釈四天王鈴」の遺品においては、四天王鈴が唐時代のものが中心であるのに対し、梵釈四天王鈴の大半は高麗時代の制作である。また、形式や鋳造技法から見ても四天王鈴に作行きの優秀な遺品が多く、造形における初発性といったものを感じる遺品が多く、逆に梵釈四天王鈴にはかなりの作例に於いて形姿が類似化し、精作の多い四天王鈴に比べ鈍重さが先行するきらいがあるところから、梵釈四天王鈴に先んじて四天王鈴が成立していた事が理解される。
・図像的特色
四天王像は、遺品のすべてにおいて、必ず塔を持つ像と弓弦を持つ像が含まれる。持塔像は多聞天とされるが、弓弦を執る像は多聞天を基準とすると定位置が定まらず尊名の比定が困難であるが、和製の彫像には現れない特徴的な像容といえる。また、和製の彫像で見られる経巻や筆を持つ像(広目天)は四天王鈴においてはまったく見いだせない。
弓弦を持つ四天王像は、経軌では宝思惟訳「不空羂索陀羅尼自在王呪」の広目天としてみへ、大英博物館蔵のスタイン敦煌将来本に唐代の作画となる遺品が遺されている。
獅子之岩屋
金銅四天王五鈷鈴(唐時代)