▼振り返ってはいけない
阿弥陀仏と比丘尼谷
幼子を亡くした女性が悲しみのあまり帰れずにいると、そこに阿弥陀仏が現れ、悲しみ振り返ってばかりいてはいけないと説き、下山させた。その後、悟りを開いた女性は比丘尼(尼僧)となって衆生を救済し、いつしか阿弥陀仏の現れた谷は比丘尼谷と呼ばれるようになった。
『過去を振り返り悲しんでばかりいてはいけないという阿弥陀仏の教え』は、現代でもあてはまるかと思われます。御参拝の際は。阿弥陀仏・比丘尼谷(水場から本堂までの岩場)でもお手を合わせ頂ければ幸いです。
阿弥陀如来
▼弘法大師と守敏大師
弘法大師と守敏大師の法力比べ
むかし、むかし、たいそうえらいお坊さん2人が法力合戦をしたんだとさ。
その日は秋というのに、朝からたいそう蒸し暑い1日だったそうな。
里人たちは「今日は大変な1日になるぞ。」「盆と正月が一緒にきたようじゃ」と口々にひゃしたてたという。
それもそのはず、火上山の天辺から山の下まで一夜にして井戸を掘るという【守敏大師】。一方、弥谷寺の裏山に四万八千体の摩崖仏を彫るという【弘法大師】。どちらのお坊さんも四国はもとより日本で二人といない立派な坊さんだから、里人たちにとればこんな素晴らしい「法力合戦」を目のあたりに見えるのだから、興奮するのも無理がないこっちゃー。
「おい、今日の法力合戦どっちのお坊さんが勝つのかのー。」里人達は、2人、3人よれば口々に大変なさわぎとなった。「だけどなー」「勝負は誰がきめるのじゃ」「それは、偉いお坊さんの事、自分自身で合図の狼煙を山より上げるのじゃそうな-。」「それじゃ、わしらはここから山を見とったらわかるのじゃのう。」「そうじゃ、その後山に行って実物を見たらわかるがなー。」「楽しみやのー。」「はよう、朝がこんかのー。」とさわぎたてた。
2人のお坊さんは日暮れと共に、一心不乱に摩崖仏と井戸掘りを始めた。それはそれは、お坊さんが1人で彫ったり、掘ったりしているものとは思えない程、素早い動作で掘って、彫っていったという。時が過ぎ、東の空が白く夜が明けてきた。里人達は、息をころしてどちらが勝つか、火上山と弥谷さんを今か今かと眺めていたんじゃとさ。その時、東の空に紅い帯を引いた朝焼けの火上山の天辺より”のろし”があがった。里人たちは、その狼煙を見て、「守敏大師が勝った。」「勝った。」とさわいだ。
ところが、本当のところ、守敏大師はまだ、2、3メートル残したところで、狼煙をあげたのじゃそうなぁー。一方、弘法大師は、夜があけると共に、ノミや石鎚をかたずけ、摩崖仏に魂を入れ、ご来光を待っていた。自分が勝負に勝った事は分かっていたが、狼煙をあげることはしなかった。人間のする事は、「勝ち負けではない。」里人たちはさわいでいるが私がした事は後世の人達にはきっと解かってもらえるものと信じ、己が一心不乱に彫った、「摩崖仏が人々の祈願を叶えてくれることで」答が出ると確信し、勝ち負けにこだわらなかったという事じゃー。「えらいもんじゃのうー。」
それにひきかえ、自分が勝負のみを考えた『おのれの心の貧しさ』を感じ取った守敏大師は、火上山山麓に「おのれの心のおろかさを」弘法大師や里人達にお詫びする為、弥谷山に向かって石仏を彫ったのじゃそうなぁー。
その石仏は、座って心を静め、目から涙を流している石仏だったとさぁー。
磨崖仏(まがいぶつ)
水場の洞窟
※扉奥に洞窟が続きます。
本堂より
▼御詠歌
「あくにんとゆきつれなんも弥谷寺ただかりそめもよき友ぞよき」
家老の林良斎が詠んだものとされ、当時、弥谷寺は丸亀・多度津の両藩から庇護をうけ、京極家の祈願寺として中尊院が復興されました。寺紋が五剣より四菱になったのも、この時代のことです。
あくにんとは身分のちがいを意味するとされ、「弥谷寺への険しい道中をともにすれば、たとえ身分の違いがあろうとも、みなよき友である」と詠ったものといわれます。
当時は、お侍であろうと町人であろうと徒歩で参拝するしかなく、お互いに顔を見合わせ笑顔になったのかもしれません。
「弥谷寺月のさしいる石室に修法大師の御声聞かまし」
獅子之岩屋の入口の扁額です。岩屋は四国霊場71番奥之院です。詠み人しらず。
百八階段
十王堂と修行大師